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俺とシノンが初めて会ったのは、もう十年以上昔になる。
いや、「会った」ではなく「俺が初めてシノンを見たのは」というべきだな。
俺はまだ九つにならなくて、ミストはやっと五つの冬だった。
あの年の冬はずいぶん雪が多かったらしい。この辺りはガリアに近いからまだましだったが、デインに近いところでは雪崩で壊滅した村が出たほどだった。
そんな冬の一番冷え込んだある日、いつもは親父といっしょに帰ってくるティアマトが珍しく早駆けで戻ってきて、留守番していた俺とミストに「お湯を沸かして! 早く!」と怒鳴ったんだ。
驚いたな。あの頃は俺がようやく火を使わせてもらえるようになったばかりだったから。
慌ててお湯を沸かしてるとミストが「おとうさんだ!」って窓を指さして叫んだ。
慌てて俺も飛び出したら、風で山の方から飛ばされた雪がちらちらする村からの道を、ぐったりした誰かを外套ですっぽり包んで背負った親父が帰って来た。
それがシノンだった。
『親父、それ、だれ?」
『今日から新しい家族になるシノンだ』
『シノン……』
あっさりと言った親父がシノンを背負いなおすと、ティアマトとは違う真っ直ぐで花のような色の赤毛が親父の肩口から零れ落ちてきた。
『団長! お湯と寝台を用意しました!』
『わかった。アイク、ミスト、話は後だ。先にこの坊主の手当てをするから、待っていられるな?』
『うん!』
『わかった。ミスト、行こう』
中から叫ぶティアマトに返事をすると、親父はシノンを背負ったまま部屋に入って鍵をかけた。
荒っぽい仕事をするけど、親父もティアマトも酷い怪我をして帰って来たことはない。あの頃は傭兵団と言っても名前だけで、人手が必要なときはギルドで個人で動く傭兵と契約してたらしいからな。
心配でミストと二人、手を繋いで親父たちが入っていった扉の外で待っていたら、意識がもどったのか、苦しそうな呻き声と親父とティアマトのなだめるような声が聞こえてきた。
『おにいちゃん、あのひと、いたいのかなぁ?』
『たぶんな』
『きれいな髪だったよね。お花のかんむりあげたら、きっとにあうね!』
『元気になったらな』
『うん。たのしみ!』
ミストみたいに無邪気に待つことはできなかったが、それから一週間ほどで起き上がれるようになって、ようやく俺はシノンに会うことができた。
意識は二日ぐらいで戻っていたそうだが、親父がシノンが落ち着くまで待てと言って部屋に入れてくれなかったんだ。
あの時はたぶん、俺よりもミストの方がわくわくしていた。
親父が背負ってた時は外套ですっぽり包まれていて顔も見えなかったけど、ティアマトより少し小柄なのはわかってたし、きっと遊び相手になってくれると期待してたらしい。
俺は……特になにも考えてなかったかも知れんな。ただ親父とティアマトが連れて帰ってきた人だから、元気になったなら良かった。そう思っていた。
『シノンはまだ本調子じゃないから、じゃれついたりはするなよ』
『はーい!』
『わかった』
笑いながら親父が入れてくれた部屋の中、寝台で起き上がったシノンがこっちを見た。
赤い髪と緑の目。ティアマトもそうなのに、シノンのはどちらも色味が違った。
胸元まで落ちる冬の花のような色の真っ直ぐな赤毛と、森よりももっと深い緑の切れ長の目。
象牙のような肌の色で、細くて、寝巻きから覗く手足のあちこちに包帯や痣があって、ミストは涙ぐんだし俺もちょっと驚いた。
本当に酷い怪我をしてたんだってことが、この時初めてわかった気がしたんだ。
『アイク、ミスト、シノンだ』
ミストはおずおずとシノンを見上げてぺこりとして、俺はちょっと考えて何も言わないシノンのそばに行った。
人を紹介されたら、握手しなきゃいけない。ミストはまだ小さいんだから俺がしないと。
そう思って差し出した手を一瞥すると、シノンはぷいとそっぽを向いた。
まさかそんなことをされると思わなかったから、あの時はちょっと困ったな。まあ笑った親父がシノンの手を掴んで、強引に俺と握手させたんだが。
痩せて骨っぽい手を握ると、シノンは思い切り嫌そうな顔をして親父を睨んで、やっぱり無言で俺の手を振り払った。
取り付くしまもない。
それが俺とシノンの出会いだった。
思えば、シノンは最初からずっと変わらずに長い間俺の手を払いのけてたんだな。
頑固というか、諦めが悪いというか。
もちろん、どちらも俺の方が遥かに上だったから今の関係があるんだが。
あれから、いろいろなことがあった。きっかけがなんだったのかは未だにわからんが、徹底的に嫌われて、避けられて、あげく敵として前に立たれたときはいっそすがすがしかったと言ってもいいかも知れん。
斬ろうと思ったんだがな。たとえ元の仲間でも、この先に進むためにどうしても避けられないなら、斬る。それがシノンに対する礼儀でもあるからだ。
実際、この手に掛けるつもりでシノンに向かったんだが、シノンは生きていた。斬る直前に見たシノンの、どこか満たされたような顔を見て剣先が鈍ったのかも知れん。
こんなことを言うとまた怒らせるから、最初から取り戻すつもりでいたとシノンには言ってあるが。
「お兄ちゃん、もう食べたの!? ぼーっとしてないで、食べ終わったらちゃんと洗わなきゃダメだよ!」
ぼんやりと考えながら、今日はミストが焼いたらしい固いパンを噛んでいると、目の前にミストの顔が見えた。
もう嫁に行こうかという歳になったのに、こんなところはいつまでも昔のままだ。
「ミスト、アイクは疲れてるんです」
「こんなに寝坊してなにを言ってるのッ。もう、セネリオはお兄ちゃんに甘いんだから。まあいいわ。さっきの話、お願いね?」
「なんだ?」
そう言えば、頼みごとをされたような気がするな。首をかしげると、隣で本を読んでいたセネリオは肩を竦め、ミストには思い切りふくれっ面になって怒られた。
「だから、買い物! 町に届いてるからシノンと行ってきてねって言ったじゃない」
「ああ、そういえばそうだったな。わかった」
「ホントにお願いね? じゃあ私、繕い物しにもどるから」
「ああ」
もう一度頷くと、ようやく納得したらしい。ミストはいつもの笑顔に戻って忙しなく部屋戻って行った。
……買い物か。団長の俺とシノンで行くならツケの支払いと、食材の買出しだけじゃなくてなにか違うものを買ったんだろうな。食材だけなら大抵オスカーがくる。
よくわからんが、シノンはいろいろなものの目利きだから、ミストとティアマトが面倒な注文をしたときに行くんだ。
「アイク、野菜も残さないでください」
「ガキじゃあるまいし、べつに見張ってなくても食うぞ」
「後に残すほど食べ辛くなりますよ。それに、眉間にしわを寄せて食事をするのは、作り手に大変失礼なことだそうです」
「なんだ、それは」
今日の肉も美味い。たっぷりと脂が乗って香ばしく焼けた皮の部分を口に入れると、セネリオはぱたりと分厚い本を閉じて言った。
「円満な家庭を築く心得の一つだそうです。出展はこちらの『ポンパドゥール夫人の語る暖かい家庭』の第二章ですが」
「その本か?」
「はい。この本はミストが借りて来たのですが、分厚いのでボーレとの結婚に当たって大事なことを僕に抜き出して教えて欲しいと」
「………自分で読まない時点で駄目だろう」
「まあ、要点さえ押さえておけばなんとかなることも多いのではないですか? 僕は今のところ結婚には興味がないので推測ですが」
セネリオに頼む辺りがミストの大雑把な性格を物語っているな。
なんとなくだが、そんな話はセネリオよりキルロイの方が向いてるんじゃないのか?
「そういえば、キルロイはまだ町なのか?」
「はい。次の仕事まで教会にいるそうです」
「そうか。あいつは子どもに読み書きを教えるのが好きだからな」
読み書きさえできれば、孤児だってありつける仕事が増える。口癖のように言っていた。
傭兵の生業は殺し合いだと言ってもいい。三年前も、この間も俺たちが戦争に加わったことで多くの新しい孤児が生まれたはずだ。
あいつはそれに心を痛めてるからな。
セネリオの言葉に頷いて残りを平らげると、俺は空いた食器とオスカーから頼まれたサンドイッチの皿を持って立ち上がった。
「セネリオ、その本はミストが自分で読むべきものだ。適当で良いぞ」
「はい。でも、アイクの妹がつまらないことで出戻りになってはいけません。最善を尽くします」
「そうか。よろしく頼む」
「はい」
それこそ、「つまらないこと」であいつが泣く羽目になったら俺も黙ってないが、セネリオの心遣いは有難い。
素直に礼を言うと、セネリオはまた張り切って分厚い本の続きを読み始めた。
外に出ると、日差しが出ていてもまだまだ冷たい空気が俺を包む。この分だと水も相当冷たいだろうな。
冬の洗い場は辛い。だから食器洗いの当番と洗濯当番は大変になる。
シノンは休みの日は大抵俺のせいで余計に洗濯する羽目になっているから、本当は俺が代わって洗いたい。
でも、なぜか頑なに俺には洗わせないんだ。
昔からきついことを言うわりにこんなところは優しいというのか、俺が一度もシノンを嫌えなかった理由はそんな部分にあるかも知れん。
井戸の方へ行くと、シノンがティアマトと二人で手を真っ赤にして山積みの洗濯物を洗っていた。
「あら、アイク。もう食べ終わったの?」
「ああ。美味かった。これをオスカーからシノンに預かってきたんだ」
「あぁ?」
ティアマトと話すときは柔らかいぐらいの表情が、俺を見つけたとたんに厳しくなる。
見慣れたシノンの顔だ。なにも言わずに布巾をかけたままの皿を差し出すと、シノンは赤くなった手を手ぬぐいで拭いてから受け取った。
「そういえばシノンはまだだったでしょう。ちょうど良いわ、ここで食べてしまいなさい」
「その方が俺も片づけが楽でいい」
俺もティアマトに続いて言ったんだが、シノンはなかなか動かない。理由はたぶん、服の下に押し込んだシーツだろう。
俺とシノンが肌を合わせる仲になってもう二年だ。わざわざ言っていなくても俺たちの仲はもう公認のものだと言ってもいいのに、なぜかシノンは頑なにしらばっくれようとする。
「ティアマト、後は俺がやる。この後は街へ降りるし、今のうちに必要なものを考えておいてくれないか?」
「そう? ……そうね。お願いしようかしら。シノンが行くなら、頼みたいものがあるのよ」
「わかった。もしキルロイへの差し入れがあるなら、それも用意しておいてくれ」
「ええ。ありがとう」
言いながら俺は洗い場の隅に食器を置いて、洗濯物を手に取った。
ティアマトも慣れたものだ。なにも言わずに食べ始めたシノンと俺を見て笑うと、さっさと立ち上がる。
それから燃えるような豊かな赤毛をまとめなおすと、ティアマトは急ぎ足で砦へ戻って行った。
「………お湯はあんまり使うなよ」
「わかってる。洗濯で使い切ったら食器の油を落とせなくなるからな」
「へっ、アイクぼうやもおりこうになったもんだなぁ?」
「家事はガキの頃からあんたに仕込まれたからな。料理と裁縫は上達しなかったが」
シノンの言うお湯は、湯たんぽの中身のことだ。ミストとティアマトが使ってるんだが、一晩布団に入れてあった湯たんぽのお湯は、こうして次の昼でも適度に暖かくて重宝する。
汚れ物の下に突っ込んであったシーツを引っ張り出してタライの中につけると、俺はだいぶ小さくなった石鹸をこすり付けた。
……良かった。血はついてないな。自分でもシノンに無茶をさせてるのがわかってるから、それが気になってたんだ。
「そんなもん、先に洗うなよ」
「俺が洗いたかったんだ」
いくら皮肉っぽく言っても、パンを飲み込んだシノンの頬が赤い。
こんな風にやりとりできることが楽しいなんて言えば、たぶんまた怒らせるだろう。
だから俺はそれ以上なにも言わずに手早くシーツを洗うと、残りの汚れ物に取り掛かった。
さすがに下着類は各自で洗うが、服だけでも結構な枚数がある。特に冬物はかさばるし、俺たちはよく汗をかくからな。
井戸の水は切れそうに冷たいが、俺がやめればまたシノンが洗い出す。シノンが冷たい思いをするくらいなら、俺の指がかじかんだり痛い方がずっといい。
そう思ってさっさと洗っていくと、残りが数枚になったところでシノンが笑い出した。
「なんだ?」
「いや。昔っからなにかに熱中したら周りが見えねえと思っただけだ。食器は俺が片付けとくぜ。手分けした方が早いだろ」
「そうだな。ありがとう」
素直に言うと、やっぱりシノンは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
花のような色の紅い後れ毛が絡む首筋が見える。昨夜、散々口づけて嫌がられた部分だ。
本当は舐めるだけじゃなくてもっと噛んだり吸ったりしたいが、痕を残すと本気で俺の眉間を弓で狙うのがわかっているからさすがにできない。
ここまで穏やかに話せる関係になれたんだ。これ以上を望むのはたぶん贅沢だろう。
そう思いながら手際の良いシノンに置いていかれないよう洗濯物を片付けて、俺は冷え切った手に息を吐いた。
俺たちはこれから街に出るから、干すのはヨファたちの仕事だ。
でも今日はシノンがヨファに弓の調整を見せるってことで、干すのはミストが引き受けた。
「……くそ、固ぇな」
「シノンさん、ぼくがやろうか? やり方を教えてもらえたら、ぼく、その通りにするよ?」
「駄目だ。微妙な力加減がいるんだよ。いいからここを押さえてな。動かすなよ。アイク、左のペンチ取れ」
「これか?」
珍しいな。弓弦の張りの調整には繊細さが必要だからと、いつもは指先だけで調整するのに。
言われた通り工具箱から取り出した小さめのペンチを渡すと、シノンはしならせた弓をヨファに押さえさせてキリキリと弦の調整をした。
弓本体の太さはシノンが使ってるものと大差ないが、ヨファのものには金属の部分が多い。耐久力は純粋な木製のものよりも劣るが、その分威力が出るそうだ。
「とりあえず、練習用のはこれでいいだろ。ヨファ、引いてみな」
「う、うん。大丈夫かな……」
「折れねえよ。いいから引け」
「うん!」
しばらくして息をついたシノンが弓を手渡すと、ヨファは最初は恐る恐る、次第に力を込めて鋼の弓を引く。
弓を構えた腕と弦を引く腕に綺麗に筋肉の筋が浮かび上がったが、まったく震える様子はなかった。
初めて戦列に加わったときは自分専用だった木製の弓を引くのもやっとだったのに、ずいぶん力をつけたな。
以前オスカーがヨファはボーレ並みに育ちそうだと笑っていたことがあるが、どうやら現実になりそうだ。
「わあ、すごい! シノンさん、これ、使いやすいよ!」
「そうだろうな。とりあえず、新しい弓を調達するまではその弓と、長弓を使ってろ。オレの部屋に鋼の長弓があるから、おまえにやるよ」
「え、でも……」
鋼の長弓は威力が高い分、扱いも難しく高価な品だ。遠慮したヨファが困ったように俺を見たが、シノンが許したものを俺に訊く必要はない。だから頷いて答えた。
「おまえの師であるシノンが許したんだ。使え」
「あ…ありがとう! ぼく、がんばるよ」
「手入れの油はケチるなよ。鉄より錆びやすいからな」
「うん! じゃなくて…はい!」
目を輝かせて頷いたヨファの頭を一つ撫でると、シノンも笑って立ち上がった。どうやら、これで残った用事が終わったらしい。
まるで小鹿のようにはしゃいで砦に駆け込むヨファを見送って、俺たちはようやく下の町へ出発した。
出掛けにティアマトから預かったのは数冊の本で、多少かさばるが重過ぎて困るというほどのこともない。
「シノン、寒くないか?」
この辺りは北の方よりも温暖だし落葉樹よりも常緑樹が多くて風を防いでくれるんだが、それでも冬はかなり気温が下がる。
「寒いに決まってんだろ。間抜けなこと訊くな」
黙って白い息の流れる横顔を見ていたんだが、肉の薄いシノンが辛くないか気になって訊くと、シノンはにこりともしないで答えた。
無視しないでちゃんと答えてくれたのが嬉しいとはもう言わないが、俺はまるで一人で歩いてるようにさっさと先を急ぐシノンの背中にちょっと笑う。
冬の寒さで冷えて固くなった狭い道を歩きながら、本が入った荷物袋を持ち替えた。
いつもにもまして無口なシノンの頭は今、ヨファの使う新しい弓をどうするかでたぶんいっぱいだろう。
冷たいようなことばかりを言うが、本当は誰よりも暖かい。
背負った剣の重みに誇りはあるが、ヨファを見ていると時々、弓も使えるようになれたら良かったかも知れんと思う。
もっとも俺が弓を使えるようになったところで、シノンが俺にわざわざなにかを教えることはなかっただろうが。
「おい、ボケっとしてんな。置いて行くぞ」
そんなことを考えていると、いつの間にか歩く速度が落ちていたようだ。
先に町への標識に着いたシノンに呼ばれて、俺は慌てて駆け出した。
なんだかんだ言っても置いて行くことはしない。そんなシノンに、懐に入れた温石よりも暖かいものを感じながら。
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